整備された笹目川周辺の現在の様子
1949(昭和24)年、東京都荒川区尾久で出生。
東京都立赤羽商業高等学校卒業。
祖父母、父母、叔父、従兄弟の大家族の中で育った。
◉祖母は伊勢神宮の小宮司の娘で、虎ノ門女学館に通う為上京。
西園寺公望や頭山満、宮崎滔天とも親交が深かったと聞いている。
◉中国革命の「孫文」が日本で所在不明だった約1年間、荒川区の祖母宅と祖父の実家である群馬・渋川の神保家に匿っていた。
その縁から現在も中国要人と交流が続いている。
1968年 ニチメン株式会社 (現:双日株式会社)に入社
1972年~ 父・中森巖太郎の浦和移転に伴い、秘書として活動
1994年~ ショッピングセンター武蔵浦和駅南ビル「マーレ」の
経営に参画。
1972(昭和47)年、当時国鉄(現:JR)は、東京駅を
起点に東北新幹線の開通を目指していたが、高架化による
騒音やテレビ電波への悪影響等を憂慮した沿線住民・市議会
の猛反対を受けていた。
父・中森巌太郎に国鉄より地元への説明依頼があり、引き
受けるにあたって、沿線住民へのメリットとして通勤新線
(現:埼京線)を併設する事を提案。
1976年より東北新幹線建設賛成運動に参画し、新幹線
建設に伴う通勤新線(埼京線)の併設や武蔵浦和駅設置など
父・巖太郎とともに活動する。
交通至便と合せて、問題なっていた水害や騒音へ対策を講
じることを前提とし、賛成多数に逆転させ東北新幹線開通に
貢献した。
1985(昭和60)年、東北新幹線の上野駅までの開通と
同時に、埼京線の開業の実現を見ることができた。
かつて武蔵浦和駅周辺は、雨が降ると50㎝を越える冠水が度々あった。
そこで、新幹線建設推進運動展開の中、父と共に国と折衝を
行い、周辺住民や県に負担を掛けずに笹目川脇の道路下に土管
を埋め込む対策を講じた。
以来、武蔵浦和駅周辺の道路が冠水することはなくなった。
整備された笹目川周辺の現在の様子
父・中森巖太郎の秘書として、新幹線通過に伴う電波妨害の解消のため
の浦和ケーブルテレビネットワーク(現:ジェイコム埼玉・東日本)を設立。
大型のパラボラアンテナを設置し、家庭ごとの小型パラボラアンテナ
設置を不要とした。1,000円でBS見放題など当時としては画期的なTV
発信を行った他、「住民間でのTV画像会議」等を実現する為のCATV活用も目的とした。
現在は、全国有数のケーブルテレビ会社に発展している。
大型パラボラアンテナ設置